正統 カリフ。 イスラム世界の歴史 2 正統カリフ時代とアラブ帝国 / 世界史 by ピアソラ

ウスマーン・イブン・アッファーン

645年頃、ウマルの死が伝わるとイスラーム勢力への反撃が各地で始まり、アゼルバイジャンとアルメニアでは部族勢力の反乱が起こり、エジプト・シリアの地中海沿岸部はビザンツ帝国()の攻撃を受ける。 スルタンは、宗教指導者ではなくて政治的トップ、 イスラム国家の王というのがしっくりくるようだ。 もちろんイスラーム復興運動は、一様ではなく、それらと国民国家との関係も一括りにすることはできない。 ムハージルーンの長老アブー・バクルがカリフ(後継者)に指名され、教団の分裂は回避された。 この指導者を「カリフ」といいます。 (1242年 - 1258年) カイロ・アッバース朝 [ ]• (842年 - 847年)• 21 朝日中東マガジンは編集長の川上さんが退職したため廃刊となってしまった。

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ウスマーン・イブン・アッファーン

そして、次の第四代の正統カリフにはアリーが選ばれました。 アッバース朝カリフのその後 ブワイフ朝はシーア派を信奉していたが、アッバース朝カリフの宗教的権威は認めるという変則的な存在であった。 。 (788年 - 796年)• (822年 - 852年)• (1118年 - 1135年)• (775年 - 785年)• 森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、125頁• ムアーウィヤは、信者の選挙という形でカリフにならなかったので正統カリフとは呼ばれません。 ( - )• ( - )• (1160年 - 1170年)• このアリー暗殺の以降、正統な選挙でのカリフ選出がなくなったことから、正統カリフ時代が終わります。 アリーは、トラカーウ(のムハンマドのマッカ征服に際してイスラームに改宗した人間)であるウマイヤ家出身の総督が統治者にふさわしくないと考えていた。

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正統カリフ時代

初代 在位 632~634 は預言者ムハンマドの没後ただちに衆に推されて原始イスラム国家の最高指導者となり,カリフと称した。 ザイド派は半島南部、イスマーイール派は南アジアと中央アジアに多い。 アッバース家運動を推進してきたアブー・サラマが革命軍のホラーサーン軍から〈ムハンマド家のワジール〉という尊称を贈られたのが最初であるが,この時はまだから任命されたのではなく,制度としても未熟であった。 最初の4代のカリフは、神に正しく導かれたカリフという意味で正統カリフとよばれ、その時代は正統カリフ時代(632~661)とよばれる。 優れた容貌と莫大な財産を持つウスマーンには多くの女性が近づいてきたが、ウスマーンは妻以外の女性と関係を持つことは無かった。 ウスマーンの治世の末期には、反乱とウスマーンの暗殺が計画されている噂が流れていた。 ウスマーンの予測は当たり、クライシュ族内の有力者にイスラームに改宗する者が多く現れる。

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イスラム世界の歴史 2 正統カリフ時代とアラブ帝国 / 世界史 by ピアソラ

ウマイヤ家のはアリーに対抗してダマスクスでカリフを称したため、イスラーム教団の主導権を巡る二派の対立へと発展し、第一次内乱(656~661)が起こった。 彼らはクーファを拠点に反ウマイヤ家の活動を開始した。 イスラーム国家が獲得した莫大な富について、ウスマーンは前任のカリフ・ウマルと同様に、イスラム教徒に危険な存在であると認識していた。 その文化遺産をイスラム教とアラビア語によって発展させたのがイスラム文明である。 詳細は「」を参照 656年ウスマーンの跡を継ぎカリフになる。

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あらためて、カリフ制って何 ?

宗教上の実践ではスンナ派と大差ないが,の殉教を悼むアーシューラー儀礼,宗教的抑圧の下では信仰を隠すこと(タキーヤ)を認める点などが同派の特徴。 中田氏は特に(3)の単一制が、西欧政治思想の国家主権の単一性と同じものではない、「欧米の政治思想の核心は、領域国民国家イデオロギーであり、イスラーム政体の第三原則はそれを真っ向から否定するものだ」と言う。 いや解りにくい。 ウスマーン時代に実施されたサワーフィー(アラブ人がイラクで獲得した土地のうち、皇帝、神殿、貴族の所有地を指して呼ばれた地域)の収入の変更について、(やマフズーム家の配下の兵士など、アラブの征服事業に初期から参加していた兵士)から反対の声が上がった。 けれどもこうやって見回してみると、中田氏だけでなく、イスラムに関する多くの論考や著作が日本語で読める。 >メロヴィング家が創設したフランク王国では、伝統的な均分相続制が取られていたため、王位継承のたびに国土が分割(3分割・4分割)された。

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正統カリフとは

ローマ法王選出は、カトリック聖職者ヒエラルキーのトップ集団である枢機卿が世界中からバチカンはシスティーナ礼拝堂に集まり、閉じこもり、この枢機卿の中からコンクラーベという選挙で法王を選出する。 ウスマーンはイスラームとマディーナの守護のために各地の総督に援軍の派遣を要請し、またウスマーンの元を訪れた教友たちは反乱者の討伐、あるいは亡命を進言したが、ウスマーンは攻撃を拒んで邸宅に残った。 ウバーン• 毎週の金曜日には奴隷を買い取り、彼らを奴隷身分から解放していたと伝えられている。 この部族はに仕えてイスラム教に改宗し、力を蓄えていった。 例えば、カリフの正統な選任をどう行うのか。 ( - )• アリー (656〜661) ムハンマドの妻 ハディージャに次いで2番目に入信。 ( - )• ( - )• (785年 - 786年)• アムナー - 同父妹• (1009年 - 1010年、1013年 - 1016年)• ムハンマドの妻を除いた人間の中では、ウスマーンは世界で2番目にイスラームに入信した人物として数えられている。

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正統カリフの時代

(809年 - 813年)• 余部『イスラーム全史』、58頁• ( - )• スルタン=カリフ制 その後、1262年にアッバース家のカリフを称する者がの保護を受けてカイロに復活したがイスラーム神学の定説ではマムルーク朝以降のカリフは認められていない。 同時にムハンマドたちへの制裁の廃止をクライシュ族の若者たちに説き、ムハンマドへの制裁は中止される。 だが、敬虔かつ潔癖なウスマーンには、同族からの利益の要求を断れない弱さがあった。 第2代カリフになった マンスール 754〜775、サッファーフの異母兄 は、新しい都 バグダードを建設し黄金時代の基礎を作った。 ファーティマ朝は12世紀までエジプトを支配したが、1171年にのに滅ぼされた。

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